さあ、今日でラストです。この本で3つも記事を書いちゃいました(笑)
この本、続編「もっとあの世に聞いた、この世の仕組み」っていうのも出てて、今読んでるんですけど、すごくいいです。
わかりやすい。雲黒斎さんありがとう!
さて、今日はこの本の最後の方のところ。真我と自我の部分を書いておきたいと思います。
「真我」はヨガが好きな人なら、アートマンと言われてて親しみがあるかもしれないですね。
今日はその自我と真我のお話しです。
引用始め
「自我を消失すれば、真我を発見できる」
このことを、自我(思考)は自らの生き残りをかけて、次のようにアウトプットした。
「自分の内側奥深くには、私本来の光り輝く''真我''という姿がある」
これなら、自我が消えてもなお「光り輝く個性」、つまり「真我」という名の「何か」を残すことができる。
つまり、自我は「個」の消失を避けるため、「真我」に何らかの新しい「定義」をもたせ、そこに「個としての性質(自我)」を継承させた。
この「何か」のことを人は「魂」と呼んでみたり、「霊」と言ってみたり、「心」と名づけてみたり、「意識体」などと解釈したりする。
どんな名称であれ、そこに「定義づけ」を行い「個としての性質」を維持させようとするんだ。
でも、「個」である以上、これは「真我」ではなく「真我のふりをした自我」なんだ。
このトリックに気づけないある人は、このように嘯く(うそぶく)。
「この''光り輝く個性''の寄り集まりが''神''である」
そんなのは大嘘だ。神でもなんでもない。「光輝く個性」などと自らを美化し、自分を神だと勘違いしている自己陶酔型エゴの塊。いまだ「個」に執着しつづけている自我の姿だ。
繰り返しになるが、存在そのものは、何ものでもない。
それを図にするとこうなる。
自我(エゴ)は、以前話した「ゴムボール」と同じだ。
''自分''を守ろうとして自分でつくり上げた防護壁。
さまざまな思い癖の集積ででき上がった「自」と「他」を分ける分離思考。
その厚い壁の内側にあるのは…。
からっぽ…。
「空から」、つまり「空くう」だ。
自我(エゴ)という名の壁がなくなったとき、壁の内にあった「空間(本当の自分)」と、壁の外にあった「空間(大いなる存在)」が一つとなり、存在本来の姿(全体)となる。
壁が消えたそのとき、''幻想の自分''の内側深くにあったもの、および''幻想の自分''を包み込んでいたあらゆるものこそが、本当の自分であったこと、本来の命の姿であったことに気づき、自分が''すべて''であることを知る。
''自分''の意味が、自我(分離・思考)から真我(統合・宇宙)へ逆転する。
私が何度も話してきた「ワンネス(存在のすべてはおまえだ)」とか『私はおまえだ』と話ししてきたのはこういう仕組みがあるからなんだ。
引用終わり
いや~今日もわかりやすいですね。
真我は光り輝くダイヤモンドじゃなくて、「空くう」だった。
なるほど。
精神世界のお話しではよく、ワンネスとかすべては一つって言いますけど、
それはまさに、こういうことだったということです。
これが世界の常識になる日がいつかきます。
ガリレオを思い浮かべながらそんなことを想います。
ありがとうございました。
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