2017年7月18日火曜日

あの世に聞いた、この世の仕組み2



さて、今日もこの本から大事だと思うところを取り上げていきます。

もはや農業ブログではなく、ただの怪しいブログですが気にしないでください。

誰がなんと言おうと農業ブログですから(笑)

今、移住に向けて動いてるので、大丈夫です。移住先の家をクリーニングするそうなので8月まで待ってくれということでした。

今月いけると思ってたけど、ダメでした。そうなると、農地を借りるのはもうちょっと後になりそうです。農業ブログとして堂々と記事を更新できるのはまだ先ですね(笑)

まあいいか。そんなわけで、こういうドタバタの時期も、日々をありのままに書いていきます。

ちなみに、耕作放棄地を借りたいなあと思っています。農薬や肥料分が抜けてると思うので。

さて、話変わりまして今日はここ。

自分と他人が実は、一つの存在だったというお話しです。

「はぁ?」だと思いますが、まあ柔軟に、頭をやわらかくしていきましょう。

引用開始

その「主観」こそが錯覚の始まりなんだよ。五感で感じられるものがすべてじゃない。人間の認識能力は実に不完全なものなんだ。

さて、どうやって説明しようかな…。よし、黒斎。説明してあげるから風呂に入ろう。

「え?風呂?」

いいからいいから。さあ、湯船につかって。

…よし。じゃあ湯船の中から、手の指だけを出してくれ。


多くの人間は、「自分」に対して、「Aさん」「Bさん」という「自分以外」の人や物が独立して存在していると思っている。

たとえるなら、「自分」は右手人差し指で、「Aさん」は左手薬指で、「Bさん」は左手の親指、といったぐあい。

もともとは「人体」という、一つの大きな存在であるにもかかわらず、「右手人差し指」「左手薬指」「左手の親指」が独立して(切り離されて)存在していると勘違いしている状態なんだ。

なぜそういった勘違いが生まれてしまっているかというと、認識能力の限界によって、それぞれの「つながり」をとらえることができていないから。

「水上」が人間の五感で認識できる領域(三次元・現象界)で、「水中」がその認識能力を超えた領域(多次元世界)だ。

本当はつながりをもっているにもかかわらず、自分の認識能力において水中がどうなっているかを把握できない状態では、水の外に出ている「指先」は、まるで独立して存在しているかのように感じてしまう。

そこから生まれた「認識できない=つながりがない」というこの考えが間違いの発端になっている。

「私という独立した存在がある(自我)」というこの錯覚・思い込みは、仏教では『有身見うしんけん』という言葉で説明されていてね、煩悩の一つなんだ。

この「自」と「他」を分離する壁がなくなる状態、つまり、自我が消えた状態のことを『無我むが』と言う。「無我」は読んで字のごとく「我が無い」という意味だが、それは「存在が消滅する」ということではない。

「自他を分ける壁がなくなり、あらゆる存在と一つになり”私”という独立した概念がなくなる」ということなんだ。

引用終わり

さて、どうでしょう。わかりやすっ!って僕は思いました。

命は、この世にたくさんあるんじゃなくて、

一つだったということです。

僕もあなたも。

バラバラじゃないんだ。本当はみんな一つなんだ。

そういう価値観を持って生きると、

愛のある人間として、有意義に生きれるんじゃないでしょうかね。

ありがとうございました。

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